石動山来歴 元禄3年(1690年)
石動山の八代仙周辺にはかつてダム建設計画があり、その際、歴史や文化財に関する調査が行われました。この調査を通じて、石動山に伝来していた多くの古文書は、戦乱による度重なる火災や、明治維新による寺社制度の崩壊により失われたことが明らかになっています。
そうした中で、氷見の網元・濵元家に代々伝わる「石動山来歴」は非常に貴重な資料です。元禄3年(1690年)に成立し、加賀藩に提出された神社の由緒書の写しとされています。
昭和47年(1972年)には第16代当主・濵元昇氏により石川県の調査に提供され、昭和59年(1984年)には第17代当主・濵元英一氏により氷見市の調査に提出され、いずれも公的な記録として残っています。
また、同一内容の文書は金沢市立博物館にも所蔵されています。
氷見市内で唯一現存する石動山に関する古文書として、今後も良い状態で後世に受け継いでいきたいと思います。
1972年石川県立郷土資料館へ、資料提供したのは、第16代当主 濵元昇
昭和59年(1984年)には第17代当主・濵元英一氏により氷見市へ資料提供がされました。
石動山来歴
平安・鎌倉の頃から霊山として栄えた石動山(せきどさん)。この山には、かつて百余の院坊が立ち並び、修験の僧たちが修行に励みました。
その中でも、大宮坊の隣に位置する「宝池院(ほうちいん)」は、14ヶ院坊を支配したと伝わる有力な院坊の一つ。山内でも重要な役割を担っていたと考えられます。
山岳信仰の中枢であり、氷見側の大窪口を通じて海の町との交流も深かったとされています。
明治9年、神仏分離の波が押し寄せた時、氷見の網元・濱元四郎三郎の家が、この宝池院の土蔵を30円で譲り受けたという記録が残っています。
石動山明治9年古文書
北陸で多くの信者のいる浄土真宗の開祖 親鸞聖人。親鸞聖人の死に際にお話しされた言葉を実の娘である覚信尼が書取り、後世へ伝えてきたとされる「御臨末御書(写)」。当家の土蔵から見つかりました。先日、京都西本願寺へ出向きこの書についても確認してきました。
本願寺史料研究所よりお返事を頂き、本史料は従来「御臨末御書」とされているものと文言が異なるため、字体・文体から近世に書されたものと考えられるとの見解でした。
愚禿親鸞 御臨末御書
網元の家 仏壇裏に密かに置かれていた桐箪笥。その中から発見されたのは、「網卸貸付山目録」と記された束の書物。虫食いこそあれど、文字はしっかりと読み取れる部分もありました。
山目録とは、GPSなどない昔、漁師は海に出て山を目印に、自分達の定置網を降ろす場所を確認していたとされる記録。石動山とも書かれているのも理解できます。
この記録が語るのは、もしかしたら漁業や貸付、土地などに関する重要な歴史。いつの時代のものなのか、そして何が書かれているのか—
専門家の初見によると、文書には明治20年(1887年)頃の記載があり、江戸時代の漁業情報が含まれている可能性もあるとのこと。
氷見の定置網漁は明治40年頃に他地域の技術が入り、大きく変化したとされます。
今回の文書は、その変革以前の姿を伝える貴重な手がかりでもあり、更に専門家の調査を進めています(2025年11月現在)
今の氷見があるのは、漁業で栄えた先人たちのおかげ。その歴史に敬意を払いながら、今後の調査結果を見守っていきたいと思います。
海から見る、石動山。昔の漁師はこの山目を目印にしていた。
網卸貸付山目録